かつてTV番組、映画、バラエティ動画、個人のスナップ写真は明確に区別されていた。しかし今、それらはすべて「動く映像」として同じ画面上で消費される時代となった。この流れは長らく進行していたが、昨年、YouTubeが米国のテレビ視聴者数でDisneyを上回ったことで、その象徴的な転換点を迎えた。
YouTubeは今や、ハリウッドの大作映画をレンタルで、無料の海賊版シットコムを、あるいは「Charlie Bit My Finger」のようなアマチュア動画を、さらにはYouTube発のインフルエンサーたちによる番組まで、あらゆる映像コンテンツが集まるプラットフォームとなった。中にはCNNやFox Newsを上回る視聴者を持つクリエイターも存在する。これらの「動く映像」が同じ場所に集まることで、もはや個別のジャンルではなく、一つの連続体として捉えられるようになったのだ。
もちろん、TVと映画では制作構造に違いがある。TVはラジオやバラエティショーの影響を受けた歴史を持ち、映画とは異なる発展を遂げてきた。しかし、それらすべてが相互に影響を与え合う「連続体」の一部であることは間違いない。この視点で過去20年を振り返ると、従来の文化批評とは異なる見方が浮かび上がる。
「成熟した中規模映画」の行方 — 彼らはどこへ行ったのか
2010年代、批評家たちは「成熟した中規模の映画」が消滅しつつあると嘆いた。スーパーヒーロー映画が市場を席巻する中、芸術性の高いドラマが減少したというのだ。しかし、振り返ってみれば、それらの作品は消滅したのではなく、場所を移したに過ぎない。ケーブルTVやストリーミングサービスの台頭により、映画よりも柔軟な長さや頻度で、芸術性の高い映像ストーリーが提供されるようになったのだ。クリエイターは、従来の「劇場用映画」という枠組みから解放され、新たな表現の場を手に入れたのである。
「Peak TV」から「Peak Content」へ — 映像表現の民主化
近年、批評家たちは「Peak TV」の終焉を嘆く声が上がっている。かつては番組数が増加し続けたが、現在は減少傾向にあり、その中でも「ながら視聴」に適した簡単な内容の番組が増えていると指摘される。しかしその一方で、ユーザー主導のプラットフォームでは、低予算ながらもエンターテイメント性や芸術性を兼ね備えた動画が爆発的に増加している。これは「Peak Content」の到来を示す現象だ。誰もがスマートフォンで動画を撮影し、瞬時に世界と共有できる時代。さらに、編集や特殊効果のツールも進化し、誰もがクリエイターになれる時代が到来したのだ。
今日、短編動画を「くだらない」「中毒性が高い」「 stupid」だと批判する声は少なくない。YouTubeやTikTokを「フー・マンチューのような洗脳ツール」と揶揄する人さえいる。しかし、かつてテレビが同じような批判にさらされたことを思い出してほしい。当時の批評家たちは「正しかった」のだろうか。それとも、今の時代の方がさらに悪化しているのだろうか。
筆者は、むしろ逆の見方を提案したい。かつての批評家たちがテレビを「くだらない」と切り捨てたように、今の短編動画も同じ運命をたどるのかもしれない。しかし、その中から新たな表現手法や芸術性が生まれる可能性も大いにある。映像表現の民主化は、単なる娯楽の拡大にとどまらず、文化全体の進化をもたらすのだ。