大学生になった頃には、すでにクルマへの興味が万人に共有されるものではないと気づいていた。友人の中には、私が延々と語るクルマ談義に付き合ってくれる者もいたが、多くの人はクルマに対してさほど関心を示さなかった。それどころか、時には無関心どころか侮蔑的な態度すら見せられたものだ。
今でも鮮明に覚えている出来事がある。1970年代半ばの高校時代、仲間と町を歩いているとき、ある友人が暗闇の中で1960年代のフォード車のテールランプの形状だけで年代を特定する方法を披露した。彼は実際にその方法を実演し、さらに地元の警察が当時使用していたボディ形状のプリムス・フューリーの見分け方まで教えてくれた。前方のアンバー色のランプが内側に配置されているのが特徴で、その存在が警察車両であることを示していたのだ。
確かに、そんな実用的な知識は誰にとっても有益なはずだ。しかし、残念ながらそうした関心は共有されなかった。「クルマなんてどうでもいい」という人々がいるのも事実だ。新しい出会いや初めてのデートでは、この情熱を最初のうちは隠すのが賢明だと学んだ。まるで当時、リチャード・ニクソンやポルカ音楽、あるいはG.K.チェスタートンの戯文を公然と称賛することがはばかられた時代のようなものだった。
それでも、なぜニューヨーク・タイムズのような知的なメディアでさえ、クルマを現代社会の重要な要素として捉えないのか理解できなかった。彼らはクルマの産業デザインや芸術としての価値を見過ごしていた。クルマが持つ歴史的重要性や世界経済への影響、そして何よりも、個々のクルマが運ぶ社会的・感情的な重みを軽視していたのだ。所有者の好みや価値観、社会的地位までもが、クルマという形で表れるのだ。
クルマは、所有者の審美眼や政治的傾向、自己イメージ、経済力、そして自己評価までをも映し出す「ロールシャッハテスト」のような存在なのだ。だからこそ、映画やテレビでキャラクターのクルマ選びが慎重に行われる理由もわかる。そこには多くの微妙なニュアンスが込められている。
クルマは単なる移動手段ではなく、私たちのライフスタイルやアイデンティティを象徴する存在なのだ。だからこそ、その魅力を再評価する時が来ているのかもしれない。