空気中の病原体を撃退する「古くからの技術」
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行時に、中国・阜陽の鉄道駅でマスクを着用した乗客たち。こうした光景は、もはや過去のものとなった。しかし、パンデミックの脅威が完全に去ったわけではない。次なる感染症の脅威に備えるため、研究者たちは「グリコール蒸気」と呼ばれる技術に注目している。
グリコールとは?身近に存在する化学物質
グリコールは、化粧品、霧マシン、食品など、私たちの身の回りのさまざまな製品に使用されている化学物質だ。ポリエステル素材の衣類やペットボトルなど、日常的に目にするものの多くがグリコールを原料としている。歯磨き粉やサラダドレッシングの容器にも使われている可能性がある。
グリコールは、原油や天然ガスから工業的に生産される人工化合物で、主に不凍液の成分として知られる。冷却システムでは、水よりも低温を維持するために使用されている。
ウイルス不活化能力が注目される理由
グリコールの最も注目すべき特性は、空気中に気化させると、ウイルス、細菌、真菌胞子を迅速に不活化する能力だ。しかも、その濃度は目に見えず、無臭で、無味であるほど低い。この特性により、季節性インフルエンザの拡散を抑制し、さらには新たなパンデミックの発生を未然に防ぐ可能性がある。
グリコールの病原体との戦いの歴史は、実に1世紀近くにわたる。近年の研究により、この技術の実用化が現実味を帯びてきた。
安全性とコスト効率の高い選択肢
化学的には、グリコールはアルコールの一種に分類される有機化合物だ。特にプロピレングリコール(PG)、ジプロピレングリコール(DPG)、トリエチレングリコール(TEG)の蒸気は、人間が吸入しても安全とされている。
中でもTEGはコスト効率に優れ、1,000平方フィート(約93平方メートル)の部屋を保護するのに、1日あたりわずか10~50セントの費用で済むという。
どのように病原体を撃退するのか?
グリコール蒸気が病原体を不活化するメカニズムは完全には解明されていないが、空気中や表面に存在するウイルスを無力化し、呼吸器疾患の伝播を防ぐ効果が実証されている。
米クリーブランドVA医療センターの感染症専門医で研究者のカーティス・ドンスキー氏は、「グリコール蒸気は、SARS-CoV-2(新型コロナウイルス)、インフルエンザ、エボラウイルスなどのエンベロープウイルスに特に効果的だ」と指摘する。
歴史が証明する効果:1940年代の研究
グリコール蒸気の感染予防効果を示す研究は、1940年代半ばまで遡る。1941年から1944年にかけての3冬にわたり、小児病院で実施された研究では、グリコール蒸気を使用した病棟で風邪の発生が96%減少し、気管支炎、中耳炎、急性咽頭炎の総症例数も90%減少したことが報告されている。
「時代が異なれば研究基準も異なる」と語るのは、パンデミック予防に取り組む非営利団体「ブループリント・バイオセキュリティ」の創設者兼エグゼクティブ・ディレクター、ジェイコブ・スウェット氏だ。「しかし、この研究はグリコール蒸気が持つ可能性を示している」と同氏は述べる。
かつての「グリコレーター」ブームとその後
1940年代、グリコール蒸気の感染抑制効果に注目が集まり、「グリコレーター」や「グリコライザー」と呼ばれる装置が家庭やオフィス向けに販売された。しかし、抗生物質の普及とともに、その関心は次第に薄れていった。
現代における実用化に向けた動き
「今こそ、グリコール蒸気技術を見直す時だ」と語るのは、米国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)のウィリアム・ビッケル准教授だ。「新型コロナウイルスのパンデミックを経て、空気感染のリスクに対する認識が高まった。グリコール蒸気は、そのリスクを低減する有力な手段の一つとなり得る」と同准教授は述べる。
現在、複数の研究機関がグリコール蒸気の実用化に向けた取り組みを進めている。例えば、米国のある研究チームは、オフィスや学校、病院などの公共施設にグリコール蒸気システムを導入するための技術開発に着手している。
課題と今後の展望
グリコール蒸気技術の実用化に向けては、まだ解決すべき課題もある。例えば、長期的な安全性の検証や、装置の設置・維持にかかるコスト、一般市民への普及啓発などが挙げられる。
しかし、専門家たちは、この技術がもたらす可能性を高く評価している。「グリコール蒸気は、パンデミック対策の新たな選択肢となるかもしれない」と、スウェット氏は語る。「私たちの生活を守るために、古くからの技術が再び注目を集めている」
「グリコール蒸気は、空気感染のリスクを低減する有力な手段の一つとなり得る」
ウィリアム・ビッケル准教授(米国立アレルギー・感染症研究所)