米国では、退職後の経済的安定を目指す貯蓄が重要な課題となっている。世帯レベルでは、貯蓄は将来の安定に向けた基盤であり、経済全体では投資を通じて資本ストックの拡大や賃金上昇、経済成長に寄与する。しかし、現在の社会保障制度や税制は、貯蓄を阻害する要因となっている。このような状況下で、政治家が米国民の貯蓄を支援する提案を行う際には、まず政府が設けた貯蓄の障壁を取り除くことが不可欠だ。
ところが、トランプ前大統領が発表した新たな大統領令では、雇用主が提供する退職金プランを持たない労働者向けに「TrumpIRA.gov」という政府ポータルサイトを開設し、民間の退職金口座を紹介することが示された。また、年間最大1,000ドルの「貯蓄マッチング(Saver's Match)」と呼ばれる政府補助金を受けられる可能性もあるという。しかし、この提案は根本的な問題を解決するものではなく、むしろ財政負担の増加や制度の非効率性を招く可能性が指摘されている。
提案の内容と背景
「TrumpIRA.gov」は、雇用主が退職金プランを提供していない労働者が、民間の退職金口座を選択できるようにするものだ。また、低所得層を対象とした「貯蓄マッチング」は、2022年に成立した「SECURE 2.0法」に基づくもので、トランプ政権はその早期実施と認知度向上を目指すとしている。しかし、この制度はすでに存在しており、トランプ政権の提案は実質的にその拡大版に過ぎない。
さらに、議会では超党派で「米国人のための退職貯蓄法(Retirement Savings for Americans Act)」が検討されており、国民所得中央値以下の労働者を自動的に新しい退職金口座に加入させ、政府が拠出金を提供するという内容だ。RANDコーポレーションの調査によれば、この制度の対象は約6,300万人、そのうち4,200万人が政府の拠出金を受け取る資格があるという。
専門家からの批判と課題
この提案に対しては、財政面と政策面の両方から批判が寄せられている。まず、財政面では、低所得層の既存口座保有者に年間最大1,000ドルの拠出金を支給するだけでも、2027年から2032年までに93億ドルの財政負担が生じると試算されている。さらに、対象者を拡大し、口座を持たない労働者を自動加入させる場合、最初の10年間で2,850億ドルもの財政支出が必要になるとの試算もある。これは、すでに28兆ドルの長期的な不足が見込まれている社会保障制度の負担をさらに悪化させる可能性がある。
しかし、財政面の課題よりも深刻なのは、提案の根底にある貯蓄行動の誤解だ。数十年にわたる経済研究によれば、低所得世帯は貯蓄を「失敗」しているわけではなく、そもそも貯蓄を行う余裕がないことが明らかになっている。そのため、政府が拠出金を提供しても、貯蓄行動の根本的な改善にはつながらない可能性が高い。
今後の展望と課題
米国の退職金制度の改革は、単に政府が拠出金を提供するだけでは不十分であり、制度的な障壁の除去や、低所得層の経済的余裕の拡大が不可欠だ。また、社会保障制度の持続可能性を高めるためには、より包括的な改革が求められる。トランプ政権の提案は、貯蓄促進という目標自体は評価できるものの、その実効性と財政負担のバランスを慎重に検討する必要がある。